錦織圭とコーチ(マイケル・チャン)が受けた「人種差別」 よく耐えた、よく乗り越えた 全豪オープン、無念のベスト8

「欧米のスポーツ」とされてきたテニス。わずか17歳でこの世界の頂点に立ったチャンは、錦織に己の姿を重ね合わせていた。体格の壁を越え、逆境を跳ね返し、今、二人の東洋人が旋風を巻き起こす。 ■アジア人にしては頑張ったね 全豪オープン準々決勝、前回大会の覇者・バブリンカ(スイス)のサービスエースが決まり、錦織圭(25歳)の敗退が決まった瞬間、日本中が失意のため息に包まれた。 だが、現地で試合を見ていた海外のテニスファンの反応は、日本人とはまったく違うものだった。 錦織の健闘を称え、コートを去る背に拍手を送りながらも、観客たちはどこか満足気。 「アジア人にしてはよく頑張ったね」 彼らの表情は、そう言っているかのようだった。 米スポーツ誌『スポーツ・イラストレイテッド』で、テニスを専門に取材するベテラン記者のジョン・ワーサイム氏が証言する。 「日本では大人気だと聞いていますが、正直に言って、錦織は海外のテニスファンの心はまったく摑んでいません。というより、誰も錦織に興味がないんです。欧米人が期待し、関心を持っているのは、錦織ではない。自らの国の選手、つまり欧米のスターたちだけです。 では、なぜ錦織の試合が喜ばれたか。それは彼が負けたからでしょう。欧米人は自分たちのスターに懸命に立ち向かった末に敗れる、いいアンダードッグ(負け犬)が大好きなんです。観客たちが惜しみない拍手を送ったのは、彼らが望む通りそんなシナリオを、錦織が描いてくれたからですよ」 海外のファンが準決勝で見たかったカードは、あくまで、世界ナンバーワンプレーヤーのジョコビッチ(セルビア)と、前回覇者のバブリンカの一戦。つまり彼らが錦織に期待していたのは、「勝利」ではなく「健闘」だったというわけだ。 錦織に対する、この「人種差別」とも言えるアジア人軽視の風潮。それは、今回の全豪から始まったことではない。 「実力が世界で認められ始めた頃から、錦織はその空気を肌で感じてきたと思います。たとえば、'13年の全仏オープン。錦織は地元フランスの選手と戦った3回戦で、大ブーイングを浴びました。それも錦織に非はまったくなかったにもかかわらず、です。 相手のフランス人選手は、試合の合間にコーチから助言を受けた。これは禁止行為であるため、主審はペナルティとして失点を宣告しました。しかしこの判定にそのフランス人は猛抗議し、観客もそれを後押しした。錦織がサーブを打とうとするたびに容赦なく汚い野次が飛び、ポイントを取るたびにブーイングの嵐が起きた。地元の声援で片付けるには、あまりにも理不尽でした。観客たちの頭には、アジア人に対する蔑視があったはずです」(錦織を長く取材してきたテニスジャーナリスト) そして、徐々に世界ランキングを上げていった昨年以降、そんなアジア人への「差別」は、さらに顕著になっていったという。 「『年間10回以上の抜き打ちドーピング検査や、早朝に検査担当者が自宅や宿泊先に突然現れたことがある』と錦織は言っていました。こんなもの、アジア人に対する嫌がらせ以外の何物でもありませんよ。クルム伊達公子も、深夜に抜き打ち検査を受け、激怒していましたからね」(前出のジャーナリスト) ■同じ境遇の師に出会えた 自分より20cm以上も背が高く、200km/hを超える強烈なサーブを連続で放ってくる怪物のような欧米選手だけでなく、テニス界にはびこる人種差別という「見えない敵」とも戦ってきた錦織。若い彼はそのプレッシャーに押しつぶされ、大会序盤で格下相手にあっさり敗れることも少なくなかった。 それでも錦織は、苦境に耐え続け、ついに、昨年の全米オープンで準優勝。世界ランキングでも、日本人史上初となるベスト10入りを果たした。 今回の全豪オープンも、実力通り危なげなく勝ち進み、ベスト8まで進出。バブリンカには敗れたが、大会を通じて、かつてのような「メンタルの脆さ」はまったく見られなくなった。 なぜ、錦織はここまで強くなれたのか。いかにして差別に耐え、乗り越えることができたのか。 錦織一人では、ここまで来られなかった。'13年の12月から専属コーチに就いたマイケル・チャン。同じアジア系として、同じ苦難を経験してきたこの男がいたからこそ、錦織は強くなったのだ。 '72年、チャンは台湾からの移民だった両親のもと、アメリカのニュージャージー州に生まれ、'88年に16歳でプロ入りした。 だが、幼少期のコーチやスクール時代のチームメイトなど、チャンの周囲の人間は、誰一人その才能を認めようとはしなかった。 プロ入り後14年間、チャンのコーチを務めてきた兄のカールが振り返る。 「悲しいことだが、アメリカではアジア人に限らず、白人以外はみなある程度の差別を受けるんだ。たとえ才能があっても、それは免れない。弟のマイケルも、『絶対に成功しない』と言われ続けたよ。身長175?のアジア系移民の力を信じてくれる者は、一人もいなかった。 でもマイケルは、その偏見を力に変えた。『勝てるわけがない。相手に優っているところなんて一つもない』、そんな周囲の言葉が、元々あったマイケルの闘争心をさらに成長させ、誰よりも強いメンタルを持たせたんだ」 ■泥臭く勝利にこだわる そして、チャンが17歳で出場した、'89年の全仏オープン。浅黒い顔をした無名のアジア系選手のプレーに、観客は驚愕した。 縦横無尽にコートを走り回り、どんなボールにも貪欲に喰らいつく。劣勢に立たされても表情を崩さず、ポイントを奪っては雄叫びをあげる-。「アジア系には無理だと決めつけた奴らを見返してみせる」チャンはそんな闘争心をむき出しにして、次々と格上を倒していった。 なかでも、ベスト8をかけて戦った当時の世界ナンバーワン選手、レンドル(米国)との一戦は、いまもテニス史に残る伝説の名勝負となっている。 「強烈なショットで早々に2セットを奪ったレンドルの勝利を誰もが確信しました。振り回され続けたチャンは足がつり、立つのがやっと。休憩のたびに水をがぶ飲みし、バナナにかぶりつく姿に、観客はみんな苦笑していた。なんだアイツは、あれじゃイエローモンキーじゃないか、と……。 しかし、そこからチャンは驚異的な粘りを見せた。超スローボール、意表をつくアンダーサーブと、相手を苛つかせる作戦で徐々にペースを〓み、2セットを連取。最後はレンドルが根比べに敗れ、チャンは勝利した」(スポーツ紙ベテラン記者) 世界ナンバーワンを破った勢いで、チャンは全仏を制覇。17歳3ヵ月でのグランドスラム優勝は、現在も残る史上最年少記録だ。 アジア系には不可能とまで言われた、4大大会制覇を成し遂げたチャン。世界ランキングも、2位まで登りつめた。 だが、チャンのこれほどの活躍でも、テニス界に根強く残るアジア人への蔑視を根底から変えるまでには至らなかったという。 「大会後、チャンのアンダーサーブは、古くからのテニス愛好家の間で批判の対象になりました。『あんな相手を苛立たせる目的のプレーは、紳士のスポーツであるテニスにふさわしくない』というのが彼らの主張です。そしてそのプレースタイルに対しても、ある種バカにするような向きがありました。飛び跳ねるようにボールに飛びつき、コートを駆けまわることから、ついたあだ名は『バッタ』や『ドブネズミ』といったものでした」(前出の記者) その後もチャンはたびたび4大大会の決勝の舞台に立ったが、再び優勝することは叶わなかった。 そして'03年、チャンは31歳で引退。テニス界の偏見を変えるという志は、あと一歩のところで果たせぬままとなった。 引退後、チャンはひっそりと生活してきた。鋼のメンタルで世界と戦い抜いてきた男だけに、トッププロたちからコーチのオファーはひっきりなしにあった。だが、チャンはその一切を断り、静かに隠遁生活を送っていたのだ。 チャンが再び勝負の世界へと戻ることを決意したのは、引退からちょうど10年が経った、'13年の秋。彼は錦織からのコーチのオファーに応じた。 おそらくチャンは、自分が果たせなかった夢を託せる選手を待ち続けていたのだろう。それを示すように、錦織のオファーを受けた理由をこう語っている。 「同じアジアにルーツを持つ者として感じるものがあった」 それからは、錦織への熱血指導が始まった。『錦織圭マイケル・チャンに学んだ勝者の思考』の著者で、追手門学院大客員教授の児玉光雄氏が言う。 「チャンはコーチに就任して早々、『きっと君は私を嫌いになるだろう』と告げた。これは錦織を本気で強くしたいという、決意表明です。あるとき、チャンは錦織に『苦手な選手は誰か』と聞いた。錦織が答えると、チャンはその選手の映像を取り寄せ、徹底的に分析し、アドバイスを与えたそうです。そんな熱意に触れ、錦織もチャンを信頼するようになっていきました」 チャンが錦織の指導において何よりも重視したのは、脆かった精神面の強化。アジア人に対して好意的ではない、いわばアウェーの4大大会の舞台でも、錦織が臆せず戦い抜けるよう、徹底的に指導した。 「まずチャンは、錦織の技術面を一から作り直しました。元々コーチだったアルゼンチン人のボッティーニは、比較的選手の自主性を重んじるタイプで、錦織はそれに甘える部分があった。簡単にいえば、『今日はこの辺にしとく?』という感じで、練習を切り上げていたんです。 しかし、チャンは絶対にそれを許さない。それこそ、サーブのときのボールの上げ方、足の運び方など、ジュニアで教わるようなことをへとへとになるまで繰り返させた。練習のときのチャンはまさに鬼で、一切の妥協はなし。錦織は基礎技術が身についてプレーが安定しただけでなく、『これだけやったのだから』と自信を持ち始めた」(前出のテニスジャーナリスト) ■相手が誰でも勝つのは俺だ 徹底した反復練習と並行して、チャンが錦織に繰り返し言い聞かせてきたのは、「自分を信じろ」という言葉だ。 大人しい性格の錦織は、時として相手を必要以上に尊敬してしまう傾向があった。それが顕著に現れたのは、'11年にスイス・バーゼルで行われた大会の決勝で、フェデラー(スイス)に完膚なきまでに叩きのめされた試合だ。 「錦織はそのときのことを振り返り、『あの試合で自分を見失った』とチャンに相談した。するとチャンは、『お前は試合前から負けていた』と一刀両断。チャンが責めたのは、『尊敬するフェデラーと試合できてワクワクする』という錦織の発言です。チャンは、『たとえフェデラーだろうと、お前の道を邪魔する奴はすべて敵だ。過去の成績がどうであろうと勝つのは俺だ、という強い気持ちがないと絶対にトップには立てない』と伝えた。錦織はチャンの強い口調に面食らっていましたが、『これが世界を獲るための考え方か』と、深く納得していました」(前出のジャーナリスト) こうしたチャンの指導によって、錦織は確実に変わった。大会序盤で格下の相手に星を取りこぼすことはなくなり、たとえ格上が相手でも、「お前より俺のほうが強い」という強気の姿勢を前面に出すようになったのだ。 元々才能は誰もが認めていた。しかし「何か」が足りず、世界のトップに届かなかった錦織。チャンというコーチに出会い、その何かが埋まったからこそ、錦織は昨年の全米でついに覚醒し、準優勝。そして今回の全豪でも、ベスト8まで勝ち進んだ。 チャンの兄、カールが言う。 「今や錦織は、世界のトッププロの一人になった。だがマイケルは、『まだまだ満足していない』と言っていたよ。マイケルは錦織のゴールを、グランドスラム制覇、そして世界ランク1位と決めているからね。その目標のため、マイケルはこれからも錦織を鍛え続けていくつもりでいる」 人種の壁を越え、アジア人初の世界一へ。一人では高すぎる目標も、二人ならば越えられる。錦織とチャンは、そう信じている。 ovation x-rite shure akg sennheiser hd800 ue yamaha usa seymour duncan pantone